新世紀の現実的課題としての核兵器廃絶

   日本反核法律家協会  事務局長 大久保賢一

◆はじめに

 人間は、自然環境の中での生命体であり、社会的諸関係の中で生息する、自らを実現したいと欲求している個体である。私たちが、人間としての尊厳を保持しながら、個人としての可能性を追い求めようとすれば、その大前提として、自然環境の保全と、個人の自由と平等を承認する社会的システムが必要となる。逆にいえば、自然環境が破壊されたり、神聖にして侵すべからざる者による支配の下では、私たちの人間としての自己実現は不可能になる。私たちが、人間と人間社会の可能性を信じ、人間の人間に対する一切の暴力や、理不尽な利益誘導や、不条理な心の支配などの廃絶を求めるのならば、人間の命と自由と幸福追求権を侵害するあらゆる動きに対抗しなければならない。自然環境を保全し、人類社会の持続可能性を確保すること。自由と平等と自治の理念に基づく民主主義を徹底すること。人間が生まれてから土に返るまでの間、その生存と生活と発達の可能性が保障されること。これらのために私たちがしなければならない課題は山積している。

◆障害物としての核兵器

 そして、これらの課題を実現していく上で、もっとも大きな障害なっているのが核兵器の存在だ、と私は思う。核兵器は、人間とその社会的営みを、人為的に大規模に抵抗する方法がないままに根底から破壊する方法手段である。核兵器の使用によって多くの命が失われることはもとより、次世代以降の命と環境への負荷も無視することはできない。これらの失われるものの替わりに、核兵器の使用者たちは何を手に入れるというのだろうか。それがどのような美辞麗句に飾られていようとも、私はそれを承認しない。また仮に、核兵器は使用されることはなく、その存在自体が国際社会の平和と安定に役立っているのだとしてみよう。使用されることのないものに、膨大な人的・物的資源が投入されることになるのだ。壮大な無駄である。しかしその無駄の一方で、巨万の富を入手する軍事産業があるのだ。その資源と富が振り向けられるべき対象がないのだろうか。今地球上には、推定8億4100万人の人々が慢性的飢餓状態にあり、毎日1万9000人の子どもたちが栄養不良などで死亡しているという(96年WHO統計)。これらの事態を放置したままでの国際社会の秩序と安定とは何を意味するのだろうか。私は、このような形での秩序と安定を座視することはできない。核兵器の廃絶と使用禁止に向けて私たちは急がなくてはならない。

核兵器廃絶の可能性と核兵器条約

 核兵器の廃絶のためには、その意思と運動と体制が必要である。ただし、その前提として廃絶の可能性を確認しておかなければならない。 ある識者は、5万発の核弾頭からウラン235やプルトニウム239を抜き取って一箇所に集めたとしても、約50トン、2.5?の金属塊だとしている(「核廃絶は可能か」岩波新書)。放射能の危険性も使用済み核燃料より低いというのだ。(このことは原発の危険性を浮き彫りにすることになるけれど、ここではそのことを度外視しておく。) 
 核兵器の廃絶は物理的には困難なことではないのだ。そうすると、核兵器の廃絶のためにはその政治的意思決定がなされればいいことになる。その政治的意思決定とは、核兵器使用禁止と核兵器の廃絶を各国に義務付ける核兵器条約の制定である。その作業はいうまでもなく各主権国家によってなされることになる。各主権国家の国家意思の形成は、国民主権国家においては、国民の多数派によってコントロールされることになる。核兵器の廃絶あるいは「核の傘」からの脱却を求めようとする国民の意思が多数となるためには、核兵器を絶対悪とする人々だけではなく、平和と安全のためには必要であるとする人々の支持を得ることが不可欠である。自国の平和と安全への関心は、当然重視されるべきであろう。そうすると、核兵器の廃絶を願う私たちは、核兵器に依存しない安全保障体制を提案しなければいけないことになる。言葉の本来の意味での「集団安全保障体制」をアジア・太平洋地域に確立することが要請されるであろう。

◆北東アジアでの核兵器使用禁止

 けれども、この「集団安全保障体制」が確立されることと、核兵器の使用禁止とは、別の問題でもある。日米安保条約を存続させることと「集団安全保障体制」との並存は矛盾であるとしても、日米安保の下でも核兵器の使用を禁止することは政策選択として不可能ではないからである。例えば、北東アジア地域における核兵器の使用を制約する条約を締結すればいいのである。この地域での核保有国は、アメリカ、中国、ロシアである。これらの国の核兵器の使用を禁止する条件を作り出すことが緊急の課題であろう。そのために必要なことは、日本政府が「核抑止論」から脱却することである。私たちは「核抑止論」の理論的破綻を指摘するだけでなく、政府の政策変更を可能とする運動を作り出さなければならない。


◆非軍事平和思想と核兵器の廃絶

 ところで、核兵器の相互使用によって人類社会が滅亡してしまうとすれば、自国の平和とか安全は無意味になってしまう。けれども、自国が核兵器を使用することは可能だが、他国の使用を不可能にすることができれば、自国の平和と安全は保全することができることになる。他国の民衆を殲滅した上で確保される自国の平和と安全とは何なのかは問われるべきことではあるにしても、自国の生き残りは可能になる。国益のためには、殺戮も破壊も辞さないとする選択は、最も強力な軍事力を保持しつづけることによってのみ可能となる。そして、そのアメリカ政府と格下の同盟者としてのわが国政府はその政策を実行しているのである。
 私たちの政策提言はこれとの対抗関係の中で展開されなければならない。私たちの対案の基礎に据えられるべきは、日本国憲法の非軍事平和主義である。戦争と軍事力と交戦権を否定し、全世界の民衆の 平和的生存権を 承認する徹底した 平和主義は、ただ核兵器の使用や その廃絶を 要請するだけでなく、あらゆる戦争と 軍事力の廃棄を展望 しているのである。

◆国際会議の開催を

 私たちが、「非軍事平和思想を国際規範に」と世界に発信したのは、99年5月のハーグ平和市民会議であった。東北アジア非核地帯の実現、核兵器条約と核兵器廃絶への道、そして非軍事平和思想を国際規範とするための方法などについて、私たちは継続的に研究し、行動していかなくてはならないであろう。

 日本反核法律家協会は、早稲田大学や国際反核法律家協会と協力して、今年8月上旬、これらのテーマでの国際シンポジウムと国際反核法律家協会の総会(8月5日・広島)を予定している。
 詳細についてはその都度お知らせすることとして、皆さんの物心両面にわたるご協力をあらかじめお願いする次第です。
                                             (2001・1・16 記)