核兵器の廃絶をめざす日本法律家協会
 
 
 
 
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福島原発問題についての日本反核法律家協会の見解

2011年5月26日
日本反核法律家協会理事会

 日本反核法律家協会は、2011年5月26日開催された理事会で、下記のとおり、標題の見解を決定しました。

福島で何が起きているのか
  2011年3月11日の東日本巨大地震に続いて、福島第1原子力発電所事故が発生した。それは、チェルノブイリ事故(1986年)に並ぶ国際原子力・放射線事象評価尺度(INES)レベル7の「重大な事故」である。放射性物質が環境に大量に放出され、現在も終結していない。広範で深刻な放射能汚染が進行している。
  事故現場から半径20キロメートルの地域は「警戒区域」として住民の立ち入りは禁止され、生活と生産の場を既に奪われている。それ以遠の「計画的避難区域」あるいは「緊急時避難準備区域」とされた地域の人々も生活と生産の場を奪われようとしている。これらの地域の人口は約14万人である。もちろん、これらの地域以外の人々も、有形無形の被害を受けていることを忘れてはならない。
  放射線の低線量被ばく(内部被ばくを含む)が、現場労働者をはじめ、関係公務員や地域住民の健康に及ぼす影響も計り知れない状況にある。新たなヒバクシャの発生である。
  更に、大気も海洋も河川も地下水も土壌も放射能で汚染され、その影響被害は海外にも及んでいる。
  「原子力の平和利用」がもたらした、人類史上最悪の事態が現在進行中なのである。

この事故の特徴
  かつて、日本は、原爆投下や水爆実験など「核兵器」による被害をこうむってきた。これらはいずれも、外国の行為によるものであった。しかしながら、今回の「原発事故」は、自国の政府の政策による結果である。
  わが国政府は、原子力発電を「電力の安定的供給の確保」、「地球環境への適合」、「発電の効率性」などを理由として推進してきた。加えて、強調しておきたいことは、「重大な事故」の発生を懸念する声には耳を貸さず、事故の発生への対処は何ら準備してこなかったことである。原発を危険な存在として位置づけず、安全なものとしてきたのである。この「安全神話」が、重大事故への備えを怠り、事故直後の対処の不適切さをもたらしたのである。これが、今回の事故は巨大地震と津波と同時に発生はしているが、決して「異常に巨大な天災地変」ではなく、「人災」とされる理由である。
  日本は、「神の火」(核エネルギー)によって、またも悲劇の当事者となったのである。

日本の反核法律家の立場
  日本反核法律家協会は、核兵器の廃絶と原爆被爆者支援を目的として行動してきた。ここには、「原子力の平和利用」についての立場は表明されていないし、これまで、原子力発電所建設反対の行動をとってきたこともなかった。その意味では、私たちも、今回の事故については、何らの備えもしてこなかったのである。不明を恥じなければならない。
  そうすると、私たちも、今後、核兵器廃絶だけではなく、「核の平和利用」についての立場を検討しなければならない。原発被曝者の支援についても検討しなければならない。核兵器も原子力発電も、核エネルギーを使用するという点では共通である。原爆被害も原発被害も核の普遍的な力を誤って用いた結果だからである。

国際法規範の到達点
  そこで、現在の法規範の到達点を確認し、その到達点が、現在と将来の人類の生存にとって必要かつ十分な地平にあるかどうかを検討してみよう。
  核不拡散条約(NPT)は、「核の平和利用」(当然、原子力発電を含むが)は、加盟国の「奪い得ない権利」としている(4条)。2010年のNPT再検討会議でも、このことは所与のこととされている。
  また、「原子力の安全に関する条約」は、「原子力の利用が安全であり、十分に規制されており及び環境上適正であることが国際社会にとって重要であることを認識し」(前文)として、原子力の利用の安全性の確保が可能であることを前提としている。
  このように、現在の国際法は、「原子力の平和利用」の権利性を承認し、その危険性のコントロールも可能であるとしているのである。

日本の法制度
  日本においても、原子力の平和利用を「国策」として推進されてきた。
  原子力基本法は、原子力の研究、開発、利用の推進を目的としている(1条)。
  加えて、原子力発電所の建設を進めるために、さまざま財政上の措置が講じられてきた。端的にいえば、原発建設を認める自治体には、税金をふんだんに投入してきたのである。
  マスコミや学校教育の現場でも、原子力は「夢のエネルギー」として、喧伝されてきた。
  原子力発電について「安全神話」の流布である。そして、人々はそれを信じてきた。
  また、原子力損害賠償法は存在するが、責任主体は「原子力事業者」に限定され、「異常に大規模な天災地変」の場合には、責任を免れることもありうるとされている。

原子力発電所に反対する理由
  ところで、日本にも、原子力発電所の設置や稼動に反対する理論と運動は存在している。その反対の理由は、@核エネルギーの利用技術は未完成であること。これには、核エネルギーをコントロールする技術的困難性と、核廃棄物の処理方法が確立していないことの2点が含まれる。A日本は地震や津波の多いという地質学上の特徴があること。B人口密集地帯に近接せざるをえないという地政学的条件などが指摘されている。更に、国際的に最も関心が払われているのは、核物質の国際テロリストなどへの拡散である。
  これらの危険性を整理すれば、@核エネルギー利用そのものが持つ危険性。A地質学上の危険性。B地政学的上の危険性。C国際政治上の危険性などとなるであろう。

危険性を排除できるか
  問題は、これらの危険性を、現時点で、すべて排除できるかどうかである。人類が、核エネルギーをコントロールできていると言えるであろうか。核廃棄物処理の技術を持っているであろうか。できないからこそ、核物質の管理や核技術の拡散を恐れているのではないであろうか。また、誰が、「異常に巨大な天災地変」は起きないと断言できるであろうか。
  これらの危険性を前提として、それに対する対処策の構築は可能であろうか。
  また、対処策が不十分であるとして、その危険性に優先する価値あるものは存在するのであろうか。
  いずれも、その答えはノーであろう。

対置されるべき価値と論理
  「電力の安定的供給」、「地球環境の保全」、「発電の効率性」などのキャッチフレーズは、耳目に入りやすいものではある。しかしながら、原子力発電が、これらのキャッチフレーズと合致するかどうかは別論である。もともと、原子力発電は、これらの宣伝文句とは合致しないという議論があったこともさることながら、今回の重大な事故によって、そのいずれもが、全くの虚構であったことが白日の下に晒されたのである。
  放射能で汚染された環境の中で生活することは、現在の人類も、将来の人類も不可能である。放射線の人体に対する影響については、未解明な部分も多い。その不安の中で生活することは苦痛であろう。ある日突然、それまでの日常生活を断絶させられ、「故郷に帰れない」ことは、人々に限りない絶望をもたらすであろう。人々は、恐怖と欠乏に襲われ、その生活も、生産も、自由も、幸福追求権も根こそぎ奪われているのである。これらは、法の根本にある道徳と正義に反するだけではなく、将来の人類の存在基盤をも揺るがすであろう。

結論
  日本反核法律家協会は、広島・長崎の被爆者の「核兵器と人類は共存できない」という叫びを自らの想いと重ね合わせてきた。その根底にあるのは、原爆が人々に何をもたらし、何を奪い去ったかという原爆被害の実相である。
  今、私たちは、原子力発電所の事故が、人々に何をもたらし、何を奪い取っているのかという現実に直面している。
  人々に必要なものは、単に見せかけの利便性ではなく、いわんや利潤の追求などではない。生命と生活と生産であり、父や母や兄弟姉妹などの家族とつながりであり、友人や地域共同体との交流と紐帯などの「普通の人生」ではないだろうか。
  原爆投下と原発事故との間には、核エネルギーの利用の仕方や、もたらされる悲劇の質においても異なっている点があることは忘れてはならない。
  けれども、「普通の人生」を奪われるということについては共通性を見出すことはできるであろう。圧倒的力を持つ他者によってもたらされる不幸という意味での共通性である。
  国家権力や電気事業独占資本という、圧倒的に非対照の存在によって、個人の人生の基盤を奪い取られる理不尽さは、不道徳であり、不正義であり、したがって、不法とされるべきである。
  このことは、「原子力の平和利用」を容認する現在の国際法および国内法規範の根本的転換の必要性を意味している。その転換の道程は決して平坦なものではないであろう。しかしながら、こうした法意識に裏打ちされた使命感を持って、あるべき法秩序を作り出していくことが、現在を生きる法律家の役割と責任であると考える。
  日本反核法律家協会は、以上述べた認識に基づき、次の項目の実現のために全力を尽くすこととする。
(1) 原発被害者の財産的、非財産的被害の全面的回復
(2) 新たなヒバクシャの中長期的健康管理
(3) 広がっている環境汚染の回復
(4) 原発の新増設に反対する。
(5) 危険性の高い炉から順次廃炉を進める計画の策定を求める。