核兵器の廃絶をめざす日本法律家協会
 
 
 
 
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核兵器禁止条約は核軍縮にとって意味がないか?

日本反核法律家協会事務局長 弁護士 大久保賢一
 浅田正彦京大教授は、「核兵器禁止条約は核軍縮にとって無意味なだけではなく、むしろNPT体制が大きく揺らぎ、核不拡散の基礎を損なうことにもなりかねない」との意見を述べている(毎日新聞7月12日付)。
 氏の意見をもう少し紹介すると、(1)核兵器禁止条約は、侵略された場合にまで核兵器の使用を禁止しているので、米国の核抑止力に依存する日本は入れない。核兵器国はいずれも条約をボイコットしている。条約は保有国と非保有国の対立を深めることになる。(2)非核兵器国の間で、「NPT派」と「核兵器禁止条約派」に分断されかねない。(3)NPT体制に対する不満があるかもしれないが、NPT体制の下で米ロの核兵器数が激減してきたことにも留意すべきだ。(4)核軍縮を進めるためには対立しながらも一堂に会して議論のできる「フォーラム」が必要だが、別のフォーラムができれば、NPT再検討会議の形骸化が進み、NPTの屋台骨が揺らぐことにもなりかねない。(5)核兵器禁止条約は未臨界実験なども禁止しているが、その禁止の検証は困難である。核兵器の廃棄やその検証に関する規定に非現実的なところが少なくない。(6)NPTに加盟している非保有国には国際原子力機関(IAEA)の査察を受け入れる義務があるけれど、核兵器禁止条約にそれ以上のものはない。だとすれば、NPTで十分だ。(7)日本政府の不参加はある種の見識だ。政府がいう「NPTの一体性を強化し、再検討会議で保有国に核戦力や核ドクトリンの透明性向上を求める」といった取り組みが、核軍縮にとって意味がある。などということである。
 要するに、核兵器禁止条約は存在そのものが核軍縮にとって無益どころか有害だ、NPTで十分だ、というのである。これは、日本政府の姿勢を代弁するものといえよう。氏は、2015年のNPT再検討会議日本政府代表団顧問を務めたそうだから、このような見解を披露することは無理もないであろう。
 そして、核兵器禁止条約を「安全保障の現実を無視している」、「われわれに何の法的義務を負わせるものではない」、「この条約は核兵器を減らせない」、「北朝鮮の脅威に対する取り組みを損ねる」などと言い立てる米・英・仏などの核兵器国の見解と通底するのである。

 核兵器禁止条約は、氏が指摘するとおり、いかなる場合の核兵器の使用を禁止しているし、未臨界実験も禁止している。それだけではなく、開発、実験、生産、製造、取得、占有、移譲、使用、使用するとの威嚇、禁止されている事項にかかわる推奨、援助、自国への配備など包括的に核兵器を禁止しているのである。核兵器国や日本のような核兵器依存国からすれば、自国の核兵器政策の根幹を問われることになっているのである。そういう意味では、核兵器依存国と非依存国との対立が鮮明になったと言えるであろう。

 この対立は、自国の安全を核兵器によって確保するのかどうか、言い換えれば、核兵器の必要性と有用性を認めるのかどうかという対立である。この対立は和解不能な対立である。核兵器を認めるのか認めないのかという二項対立で中間項が想定できないからである(例外的に認めるというのは認めるということである)。従って橋渡しなど不可能である。
 核兵器禁止条約は、「核兵器のない世界」の達成と維持は、世界の最上位にある公共善であり、国及び集団の双方にとって安全保障上の利益に資する、としている。核兵器によって安全保障を確保するという発想を根本から否定しているのである。この発想の基礎にあるのは、核兵器は非人道的であるだけではなく、武力紛争に適用される国際法にも違反するものであり、それが二度と使用されないようにするためには、核兵器をなくすことであるという価値と論理である。

 他方、日本政府もオバマ政権下の米国も、核兵器使用の非人道性は否定していないし、いずれ廃絶されるべきであるともしている(ただし、トランプ政権は別)。核兵器使用がもたらした現実を否定できないからである。けれども、国家安全保障のために核兵器には依存したいのである。なぜなら、核兵器はその破壊力ゆえに、それを使用できたものは、武力紛争の勝利者となれるからである。だから、他国には持たせず、自分とその仲間たちの手元に置いておきたいし、その使用を違法とされたくないのである。

 その言い訳の道を封じたのが核兵器禁止条約である。だから、核兵器依存論者は核兵器禁止条約の存在そのものが許せないのである。核兵器の抑止力による国家安全保障を容認する浅田氏も、核兵器禁止条約の採択は、あたかも自分の存在意義を否定されたかのような気分に襲われているのであろう。氏も含め核兵器に依存する人々には、核兵器禁止条約が指摘している核兵器使用の被害者や核実験被害者の容認しがたい苦痛と被害には思い至らないかのようである。
 核兵器依存論者は、壊滅的な非人道的被害に優先する「国家安全保障」なるものの内実を具体的に示すべきである。無差別、大量、残虐な死と引き換えに確保されるべき価値と正義は何なのかを示すべきである。北朝鮮の脅威などということで誤魔化すことは許されない。

 核兵器禁止条約は、「核兵器のない世界」を展望して、核兵器を包括的に禁止し、その保障措置を確保し、核兵器国の加盟にも道を開いている。浅田氏は、核兵器禁止条約は、核兵器の廃棄やその検証に関する規定に非現実的なところがあるなどとしている。けれども、それは、核兵器国にも参加の道が開かれている締約国会議で検討されればいいことで、今ここで浅田氏にとやかく言われる筋合いのものではない。

 また、浅田氏は、核兵器禁止条約はNPTを形骸化するかのように言うが、それはありえない。核兵器禁止条約は、NPTは核軍縮・不拡散の礎石として機能しているし、国際の平和と安全ために不可欠であると評価している。核兵器禁止条約ができたからといってNPTが不要になるわけではない。また、NPT加盟国の条約上の義務の履行が免除されるものでもない。NPT加盟国は、「全面的かつ完全な軍備縮小に関する条約について誠実に交渉する義務」(NPT6条)の履行を求められているのである。禁止条約前文もそのことを踏まえている。ここに、形骸化が生ずる余地はない。

 更に、浅田氏は、しきりに、NPTと核兵器禁止条約の対立関係を語っているが、それは核兵器禁止条約の読み間違いである。核兵器禁止条約とNPTは対立するものでも排斥し合うものでもない。各国は、NPT再検討会議の中で、この核兵器禁止条約が「全面的かつ完全な軍備縮小に関する条約」としてふさわしいかどうかを検討すればいいのである。
 NPT体制の下で、核兵器禁止条約は邪魔者扱いされるのではなく、格好の検討対象として歓迎されるべきものであろう。そして、核兵器禁止条約が十分なものであれは、NPT加盟国はこぞって核兵器禁止条約に加入すればいいし、不十分であれば、核兵器禁止条約の締約国会議には、すべての国家の参加が認められているのであるから、その場でその不足を補う方策を考えればいいだけの話である。

 核兵器禁止条約は、「核兵器のない世界」を目指すものであるが、核兵器国の参加なくしてその世界が実現しないことは明らかである。もし、浅田氏が「核兵器のない世界」の達成と維持を希望するのであれば、NPTだけで十分だなどと切って捨てるのではなく、1970年に発効しながら、いまだに「全面的かつ完全な軍備縮小条約」に到達していないNPT体制に、この核兵器禁止条約を生かす方法がないのかを検討すべきではないだろうか。日本軍縮学会会長の経歴を持つ浅田氏に求められていることは、米ロの核兵器がピーク時に比較して激減したなどということに達成感を覚えるのではなく、核兵器禁止条約を採択した122カ国や市民社会の良心とエネルギーを自らのものとすることではないだろうか。

 同日の毎日新聞で、田中熙巳日本被団協代表委員は、被爆者は「核兵器と人類は共存できない」と訴え続けてきた、核兵器禁止条約は「核兵器のない世界」につながる道具になるはずだ、と発言している。この想いを浅田氏に共有してもらうことは叶わぬことなのであろうか。
2017年7月18日記