核兵器の廃絶をめざす日本法律家協会
 
 
 
 
  意見 >>> 日本反核法律家協会(JALANA)に関する資料

被爆地長崎の法律家としての被爆者支援
(NPT再検討会議へ向けてのレポート)

弁護士 中村 尚達
1. 長崎の弁護士の被爆者問題・核廃絶運動へのかかわりは,長崎の被爆者松谷英子(マツヤヒデコ)氏の原爆症認定を求める裁判への参加及び現在全国各地の裁判所で係属中の原爆症認定集団訴訟への参加と,これら裁判活動を通じての核廃絶運動への寄与であろう。松谷英子氏の裁判は1988年9月に長崎地方裁判所に提起されて5年を要して勝訴し,続く福岡高等裁判所でも勝訴し,最終的に2000年8月12日に最高裁判所にて勝訴判決を勝ち取ることができた。実に12年間の闘いであった。
  この裁判に参加した長崎の弁護士の数は,当時の長崎市内の実働の弁護士50名弱の約半数24名であった。保守的な長崎において弁護士の約半数が国を被告とする裁判に参加したという事は,通常では考えられない画期的な出来事であった。しかし,それにはそれなりの長崎の若手弁護士の被爆者問題への取り組みという素地があったのである。
2. 当時の長崎県弁護士会は少数の頑迷固陋な長老弁護士たちによって支配されており,弁護士会としての民主的な活動もこのため抑制されていた。民主的な活動をもって知られる自由法曹団の団員も当時長崎に3名しかいなかった。1980年代初めころ,同団員を中心として若手弁護士数名が語らい,当時の社会問題とまでなっていた刑法改正問題について弁護士会としての反対決議を出そうとして,常議員会に提案したことがあった。しかし,同常議員会においては「弁護士会は政治的問題について発言すべきではない。そのような決議をすると弁護士会は極左集団であると誤解される」との反対意見により否決された。長崎県弁護士会は当時このような保守的な体質を有していたのである。
3. 1986年長崎にて九州弁護士会連合会の定期総会が開催されることになった。そのころには弁護士会内における保守派と民主的な若手グループの勢力比は拮抗するに至っていた。九弁連大会においてシンポジウムを開催することとなったが,その年度の保守派執行部は若手グループにこのシンポジウムの担当を押し付けた。
  その前の年は被爆40周年の年にあたり,広島・長崎や中央において被爆者問題が大きく取り上げられたという状況にもあり,長崎で開くシンポジウムであれば被爆者問題を取りあげるべしとの若手グループの意見により,「核兵器廃絶・被爆者援護法の制定を求める長崎大法廷」と銘打ってのシンポジウムを開催することとなった。
  同シンポジウムには若手グループ弁護士約15名が実行委員会を結成し,その内容は原告を被爆者,被告を国として原爆投下を断罪し,裁判長が被告国に対し「核兵器廃絶の先頭に立ち,国家補償責任による被爆者援護法を制定せよ。」との判決を下す法廷劇であった。共同討議によりシナリオを作成し,各当事者の役割分担もすべて若手弁護士がこれを荷った。弁護士らは初めて経験する裁判劇に喜々として参加し,互いに発言時の姿勢や口調にまで注文を付け合った。証人として,実際の被爆者山口仙二氏及び下平作江氏に登場してもらい,生々しい被爆体験を語ってもらった。聴衆はその証言に感銘をうけ,核廃絶を求め被爆者を救済せよというシンポジウムは成功裏に終了した。総会においては全会一致をもって同趣旨の大会宣言が採択された。この法廷劇は一般市民にも呼びかけて参観をうながした。当時弁護士会がこのような催しをすることはかつてなかったことであり,被爆者や一般市民を大きく力づけ勇気を与えることができたと確信する。
4. 前記の松谷英子氏の原爆症の裁判はその2年後に提起されたのである。長崎県弁護士会の約半数の弁護士がこれに結集したのは,上記のシンポジウムでの取り組みがあったからこそ可能であった。立ち上った弁護士の大半は人権感覚にこそあふれていたが,ノンポリティカルな弁護士ばかりであり,被爆体験もない者がほとんどであった。しかし,長崎に居住している限り誰もが日常的に被爆者問題を目にし耳にする。左半身不全麻痺の障害に苦しんでいる松谷英子氏の原爆症認定を勝ち取るための裁判に24名が喜んで参加したのである。実を言うと参加した弁護士の殆んどは,この裁判に本当に勝訴できるとは考えていなかった。当時,原爆症認定をうけることができる被爆者は爆心から1.8キロメートルないし2キロメートル以内で被爆した者に限られており,疾病の種類においても癌や白血病,造血機能障害等に限られていた。松谷英子氏は爆心から2.45キロメートル地点での被爆であり,かつその疾病も左半身不全麻痺という運動機能障害である。前例からすれば認定却下は当然であり,この運動機能障害を原爆放射線の影響によるものと証明することは,極めて困難だと思われた。このような状況の中で,誰もが初めて経験する原爆症認定訴訟に取り組んだのであった。初めてというだけでなく,参加した弁護士のほとんどはDS86という放射線評価システムの存在や認定制度そのものすら理解していないという全く無知な弁護士の集団であった。そしてこのような弁護士集団が試行錯誤の中でこの裁判を闘って勝利を獲得したのである。
  もとよりこの勝利は長崎の弁護士だけの力によるものではない。法廷活動一つをとりあげても,高裁,最高裁段階においてはむしろ福岡,京都,東京の多数の弁護士が中心となってくれたし,医者や各分野の科学者の協力なしには,勝訴はありえなかった。
  そして何よりも全国の支援者の支援の賜物であった。この裁判を通じ支援する会の入会者は年々増えていき,最終的には支援者は全国に広がり空白県はなくなり,その数は10500人を超えるに至った。長崎地裁においても福岡高裁においても毎回傍聴席は支援者にうめつくされ,傍聴券を手にすることができない支援者が多数法廷外にあふれた。
  これだけの支援者を募るには全国各都道府県への涙ぐましいオルグ活動が必要であった。支援する会事務局員が中心となり,時にはこれに弁護士も加わって全国各地に赴き,訴訟の意義を訴え支援を呼びかけた。私自身も長崎市内の多くの市民集会や労組の集会で支援を訴え,鹿児島県,広島県,更には青森・秋田まで足をのばして,講演をし或いは民主団体,労組めぐりをしてカンパと支援する会への入会を要請した。他の弁護士も同様であった。この全国オルグで被爆の実相というものを多くの人々に知ってもろうことができたと思う。この1万人を超える会員の年会費により,訴訟活動や各種集会オルグ活動などが支えられた。
  この支援する会は,訴訟の終了とともに解散した。残念に思うことは,ここに結集した人々は松谷英子氏の救済を願う人々であったことはもちろんであったが,それだけではなく誰もが核兵器の廃絶を願う人々であった。1万人を超えるこの組織を核廃絶のための運動体として再組織することはできなかったのだろうか。この事は今後の運動の経験としたい。
5. 松谷英子氏の訴訟が最高裁で確定したのは2000年8月21日のことであった。国の認定行政の誤りはこの訴訟により明確に断罪されたにも拘らず,国は認定基準を改めようとはせず,DS86に新たな衣を着せただけの原因確率論というものを持ちだし,被爆者の救済を拒みつづけた。
  そこで提起されたのが全国各地での原爆症認定集団訴訟であった。この裁判は2004年4月から開始され,全国の原告被爆者数306名,そのうち45名が長崎地方裁判所の原告であった。長崎におけるこの集団訴訟には,現在長崎の29名の弁護士が参加しており,被爆者救済のため今も日夜活動している。
  松谷英子氏の訴訟においても,現在の集団訴訟においても,その目的とするところは,(1)原告被爆者の原爆症認定を勝ち取ること,(2)国に対し根本的な認定基準,認定制度の見直しをさせること,(3)裁判を通じ被爆の実相を国民に訴えこれを核廃絶の運動につなげること,の3点であった。(1)(2)は完全とは言えないまでもその目的は大巾に勝ち取ることができた。(3)については,未だその目的は達成することができず,道ははるかの感がある。しかし,核廃絶へ向う世界の潮流はもはや誰も止めることはできない。長崎の法律家もささやかながら,その目的へ向けて邁進したいと考えている。
6. 最後に個人的なことを述べることが許されるならば,私と私の両親も被爆者である。父は爆心から2.4キロメール地点で被爆し,私と母は1週間後に疎開先の熊本から父の安否を尋ね爆心を通って入市した。父は食道癌により死亡し,母は皮膚癌及び脳腫瘍を患ったあげく死亡した。私は2人とも原子爆弾により殺されたと思っている。
  被爆者は誰しもが,核兵器というものはこの世界に存在してはならない悪魔の兵器だと考えており,65年を経た現在も次々と原爆症で亡くなっていく被爆者を見るにつけ,核廃絶こそが唯一人類が生きのびる道だと確信している。このたびのNPT再検討会議がその道を開く実りある会議となることを心より希っている。