核兵器の廃絶をめざす日本法律家協会
 
 
 
 
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NPT再検討会議2010報告
−原爆症認定集団訴訟が明らかにした事実

2010年3月13日
弁護士 宮原 哲朗

1 原子爆弾による被害と被爆者の裁判
(1) 原子爆弾による被害
  原子爆弾は広島市では上空約600メートル,長崎市では上空約500メートルで爆発しました。爆発とともに小さな火球ができ,その火球は1秒後には約280メートルの直径を持つ大火球となったのです。その温度は爆発の瞬間には100万度以上,1万分の1秒後で摂氏約30万度,1秒後に火球の表面温度は約5000度であったといわれています。原爆という小太陽から発したものすごい熱線,爆風,そして放射線が広島・長崎両市を襲い,広島と長崎の街はわずか10秒で壊滅しました。多くの人々は,大やけどを負い,爆風でたたきつけられ,本人たちが知らないうちに大量の放射線を浴びたのです。そして,原子爆弾の被害の最大の特徴はこの放射線によるものです。
  広島,長崎で被爆した人は,広島で34万〜35万人,長崎で約27万人前後と考えられています。また,死亡者の数も確かな数字は判明していませんが,'45年12月までの間に広島では約14万人,長崎では約7万人が死亡したと推定されています。また,原爆炸裂の後に,家族の安否を尋ねたり,救援・復旧などのために両市に入った10万人以上の人たちも,残量放射線に被曝しました。これらの被爆者の中にも,急性症状を発症し死に至る者がいました。
  2つの都市は,奇襲によって起きた原爆投下で一瞬に(奇襲瞬間性),戦闘員・非戦闘員,老若男女をとわず(無差別性),人間と他の生物,また人工の施設・自然環境をとわず殺りくされ破壊されました(全面性)。そして,生き残った被爆者は,体・心・生活のすべての面で被害をうけ(総合性),被害はその後もとどまるところなく持続し,時には拡大しました(持続拡大性)。
  第二次世界大戦中の日本の軍人・軍属の戦死者は約220万人と言われていますが,2発の原爆で21万人が死亡したことは,戦死者のほぼ10分の1が死んだということになります。この事実だけでも,核兵器が従来の兵器とはまったく異質な大量殺戮兵器であることを明白に物語ります。

(2) 原爆症認定制度
  日本には原爆の被害者のために「原爆症認定」という制度があります。原爆症認定とは,広島や長崎の被爆者が原爆放射線を原因とする病気にかかり,その治療が必要な状態にある場合に,政府が原爆症であると認定し,その認定された被爆者に対して「医療特別手当」(月額約14万円)を支給する制度です。
  2007年3月末当時,政府が広島と長崎の被爆者と認めていた人は約25万人いました。しかし,その中で原爆症認定を受けている人は,悪性腫瘍を中心として,全被爆者の1パーセントにも満たない約2200人だけでした。
  なぜこのようなことになるのでしょうか。その理由は,日本政府が人間が原爆放射線の影響を受けるのは,爆心地から約2キロメートル以内で直接原爆の放射線を被爆した人に限り,しかも,放射線の影響のある病気を一定の範囲の悪性腫瘍等と白内障に限定していたからでした。つまり,爆心地から2キロ以上離れたところに居た人(遠距離被爆者)や,爆発後市内に入った人(入市被爆者)や,市外等で被爆者を救援した人(救援被爆者)は放射線の影響を受けるはずがないとしていたのです。

2 被爆者の裁判でのたたかい
(1) 原爆症認定訴訟で明らかになった事実
  このような政府の不合理な原爆症認定制度の運用に怒った300名を超える被爆者は,日本被団協(被爆者の全国組織)の提唱に応えて,2003年4月から全国17の地方裁判所で,国を相手とした裁判に立ち上がりました。その結果,被爆者は,'10年の3月までに22ヶ所の裁判所(15地裁,7高裁)で連続して勝訴判決を勝ち取っています。
  そして,重要なことは,この裁判で明らかになった放射線の影響が,政府が考えていたものよりも遙かに広範囲に及んでいること,また遥かに長期間にわたり人間を苦しめ続けているという,原子爆弾の比類無き残虐性だったということです。
  第1点は,爆心地から2キロ以遠にいた遠距離被爆者や原爆投下後広島や長崎の市内に入った入市被爆者にも,脱毛,下痢,紫斑といった放射線による急性症状が現れている事実が明らかにされたことです。つまり,原爆は街全体を放射能で汚染させたこと,また原爆のキノコ雲には放射性物質が充満しており,そこから黒い雨,黒い塵等になって広い範囲の被爆者の上に降り注いだ事実です。さらに,遠距離被爆者や入市被爆者は,放射能に汚染された物を吸い込んだり,飲んだり,食べたりして体内にそれを取り込みました。そのために放射性微粒子は,体内で継続的に人体に放射線を浴びせ続けました。このことを内部被曝といいます。
  第2点は,原爆が,被爆直後だけではなく,被爆後64年もたった今日でも被爆者を絶えず苦しめ続けるているという事実が明らかにされたことです。そして,放射線の影響が,特定のガンのみならず多くの非ガン疾患にも及んでいる事実も明確になりました。 

(2) 政府の政策の変更
  裁判所における被爆者側の連続した勝訴判決を受けて,2008年4月に政府は原爆症認定に対する考え方を大幅に変更しました。
  第1は,被曝の範囲の拡大です。政府は,原爆炸裂時に爆心地から 3.5kmに居た者も放射線の影響があったとして,被曝距離を拡大しました。それのみならず,一定範囲の入市被爆者が残留放射線の影響を受けていた事実も認めました。
  第2は,疾病の範囲の拡大です。政府は,原爆症と認定するガンの種類を拡大し,さらに心筋梗塞,甲状腺機能低下症,肝機能障害といった非ガン疾患が放射線によって引き起こされる病気であるとも認めました。
  その結果,認定される被爆者の数も,これまでの年間100〜200名程度だったものが,約3000名にまで増加しました。
  さらに,'09年8月6日(8月6日は広島に原爆が投下された日です),被爆地の広島で,内閣総理大臣と日本被団協との間で確認書が取り交されました。その内容は,両者は裁判所の判決にしたがって裁判を終結する。また政府は,改善された認定制度もまだ原爆の被害を十分に反映していないとする被爆者の訴えに応えて,認定制度等の改善に向けて厚労大臣と協議する場を設置するというものです。
  確認書と同時に内閣官房長官は「官房長官談話」を公表しました。官房長官は,談話の中で,政府にとって厳しい司法判断が下されたことについて,まず被爆者に対して陳謝しました。その上で,官房長官は,日本政府の公式見解として,「政府としては,唯一の被爆国として,原子爆弾の惨禍が再び繰り返されることのないように,核兵器の廃絶に向け主導的役割を果たす決意を表明いたします。」と述べました。

(3) 日本政府の核政策の矛盾
  被爆者は,日本政府の被爆者に対するこのような理不尽な政策の背景には,日本政府の核兵器に依存する姿勢があると考えています。日本政府は,一方で「唯一の被爆国として核兵器廃絶に努力する」と言いながら,他方で米国の「核の傘」に依存する安全保障政策をとっています。米国の核兵器が日本の安全のために役立っているというのです。そして米国は,良く知られているように,核兵器は国家の安全保障にとって必要不可欠であり,場合によっては核兵器の先制使用も辞さないという態度をとっています。
  被爆者は,日本政府は広島,長崎に投下された原爆が,広範囲の人間に対して長期間にわたり大きな影響を与え続ける,比類無き残酷な兵器であることが明らかになることを避けたいのではないか,これらの事実が日米の核兵器政策の障害と考えているのではないかと思っています。
  つまり,日本政府は「原爆の影響をできるだけ狭く,そして小さな被害としたい」とすることを強く望んでおり,被爆者はその考え方が原爆症認定制度の運用を歪めていると考えているのです。

4 まとめ−核兵器が人類と共存できないこと
  被爆者は,原爆被害を受けた後60年余を経た今日まで,原爆による後遺症に苦しみながら,凄惨な地獄を生き延びた証人として,全世界の人々に核兵器の速やかな廃絶を訴え続けてきました。それは,「世界中の誰にも,同じ苦しみを味あわせたくない」「ふたたび被爆者をつくらせない」(ノーモア ヒロシマ・ナガサキ,ノーモア ヒバクシャ)という願いからでした。それにもかかわらず,核兵器は現在も2万発以上が地球上に存在します。
  被爆者は,核兵器をこの地上からなくすためには,世界中の一人でも多くの人が,原爆被害の事実・実態を知ることが最も大切であると考えています。被爆国である日本政府の原爆症認定制度,つまり原爆被害に関する狭い考え方は,この被爆者の願いに背き裏切るものなのです。
  原爆投下は1945年8月ですから,既に64年の歳月が経過しています。しかし,原爆の放射線は被爆者をいまだに苦しめ続けています。つまり,原爆被害は,決して過去の問題ではなく現在の課題なのです。
  そして,裁判に立ち上がった多くの被爆者が法廷で明らかにした様々な被爆の実態は,核兵器の比類無き残虐性と,それ故に核兵器は人類と共存できないということを明確に証明することになっているのです。