核兵器の廃絶をめざす日本法律家協会
 
 
 
 
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特集:「核兵器の非人道的結末」に関する国際会議(オスロ会議)
オスロ会議に向けての提言集

ふたたび被爆者をつくるな―核兵器のない世界を求めて―

日本反核法律家協会事務局長
弁護士 大久保賢一

核兵器と人類は共存できない
 「ふたたび被爆者をつくるな」は、被爆者からの全人類に向けたメッセージである。被爆者は、核兵器が人間に何をもたらすかを体験した歴史の証人として、核兵器の廃絶を呼びかけているのである。
 私たちは、核兵器が人間に何をもたらしたかを知らないで、現在と未来を語ることはできない。私たちは、被爆者の証言に耳を傾けなければならない。そして、語る機会を奪われた被爆者たちに想いを馳せなければならない。
 私は、核兵器の使用は、国際法に違反し、また法の基礎にある人道や正義と相容れないと考えている。被爆の実相を知るとき、核兵器と人類は共存できないし、法は核兵器を許容しないと思うからである。
 そして、核兵器をなくしたいし、なくすことはできると考えている。
 なくしたい理由は、核兵器は絶対悪であり、人間社会を滅亡させるかもしれないからである。それが使用された場合には、直接的な滅亡をもたらすであろうし、使用されないとしても、危険で無駄なことに巨費を費やすがゆえに、緩慢な滅亡をもたらすからである。

核兵器の廃絶は可能である
 なくせると思う理由は、核兵器は人工物であり、政治の道具だからである。
 地震や津波は自然現象であるが、核兵器は人間がつくるものである。人間の意思と行為がなければ核兵器は存在しない。既存の核兵器も解体は可能だし、核物質の処理については未解決の部分はあるにしても、兵器として使用できない状態にすることは、さほど困難なことではない。
 また、戦争は国家の政治的意思の暴力的実現である。政府の政治的意思は、民衆の意思が政治に反映する体制下においては、民衆によるコントロールが可能である。長崎以降、核兵器が実戦で使用されることはなかったことがその証左である。核兵器は、民衆の意思によってなくすことは可能なのである。
 そうすると、私たちの課題は、核兵器の非人道性を理解することから始めて、核兵器に依存する者たちの価値観と論理に対抗し、核兵器廃絶に向けての政治的意思を形成することである。ここでは、核兵器使用の非人道性は既に明らかであるので、核兵器に依存する者たちの論理を検証する。

原爆投下の理由
 米国大統領トルーマンは、原爆投下直後、声明を出している。「16時間前、広島に爆弾1発を投下した。戦争史上もっとも大型爆弾である。…日本は、パールハーバーで戦争を開始した。彼らは何倍もの報復をこうむった。…太陽のエネルギー源となっている力が、極東に戦争をもたらした者たちに対して放たれたのである。…ポツダムで出された最後通告は、全面的破滅から日本国民を救うためであった。彼らの指導者はこれを拒否した。」などというものである。
 トルーマンは、原子力エネルギーの特徴を正確に理解したうえで、「パールハーバーの報復」、「極東に戦争をもたらした者への使用」、「日本国民を全面破滅から救う」と語っているのである。
 そして、米国では、「日本占領には、100万人からの米側犠牲者とそれに倍する日本側の犠牲者が予想される。原爆はその犠牲なしに戦争を終わらせることができた。」と語り継がれているという。
 原爆投下の理由は、@戦争早期終結、A占領と植民地支配からの早期解放、Bパールバーの報復、とされているのである。

原爆投下の理由は被爆者の苦悩を合理化できるか
 これらの理由は、原爆がもたらした無差別、大量、残虐な殺戮と破壊、そして永続する被爆者の苦悩を正当化するのであろうか。まさにそのことが問われているのである。戦争に勝利するという軍事的合理性のためであっても、許容されない戦闘手段・方法があるというのが、人道と正義の要請であり、国際人道法の存在理由である。
 このことに関連する事実を二つ紹介しておく。
 1945年8月10日、大日本帝国政府は「米機の新型爆弾攻撃に対する日本政府の抗議文」を発表している。その抗議文は、原爆の無差別性と残虐性は国際法に違反すると指摘し、人類文化に対する新たなる罪悪であり、全人類及び文明の名において、米国政府を糾弾するとしている。
 そして、1963年、東京地方裁判所は、「原爆裁判」の判決で、米国の原爆投下は、国際法違反であると判断しているのである。
 このように、日本国の政府も裁判所も、国際法や人道あるいは文明に違反するという見識を示したことはあるのである。

核兵器を必要とする議論
 現在の日本政府は、唯一の被爆国として核兵器の廃絶を求めるとしている。けれども、この核兵器廃絶論を額面どおり受け取ることはできない。なぜなら、日本政府は、安全保障のためには米国の核抑止力に依存するとしているからである。
 もともと、核抑止論というのは、「我が国に武力攻撃をしかければ、核兵器で反撃されて、お宅の国は消滅するぞ」という威嚇で、相手国の軍事行動を「抑止」するという理屈である。日本は核兵器国である米国と密接な同盟関係にあるので、その米国の「核の傘」の下で、他国の軍事行動を抑止しようというのである。
 この核抑止論は、核兵器の力で自国の安全を確保しようとするものであるがゆえに、自ら進んで核兵器をなくそうとはしない。軍事力の強弱で自国の安全を確保しようとする限り、最強の兵器を投げ出すことは非合理的な行動となるからである。軍事力の強弱で自国の安全を確保するとの方策を取り続ける限り、核兵器はなくならないのである。
 そして、核抑止論者たちは、核兵器の有効性を熟知しているがゆえに、自分たちの核兵器は維持し、他国が持つことは阻止しようとする。これが「核不拡散」の論理である。この不平等で身勝手な論者は、「核不拡散」については熱心になるが、核軍縮については怠惰この上ない態度をとることになる。核兵器保有国が、核不拡散条約(NPT)6条の義務履行に不誠実なのはこういう理由である。
 核抑止論は、核兵器の必要性と有用性を承認する、核兵器廃絶とは背反する論理なのである。

オバマ大統領の「核兵器のない世界」について
 オバマ大統領の「核兵器のない世界」は、修辞的部分を除けば、核兵器がテロリストなどの手に渡り、米国が核攻撃を受ける恐怖から免れるための提案である。核攻撃の恐怖から免れる抜本的施策は、核兵器をなくすことだというのである。それは極めて功利的かつ論理的であるが、原爆投下がもたらした広島・長崎のカタストロフィーに根ざしたものではない。そのことは、彼が、米国と同盟国の安全が確保されるまでは核兵器を保有し続けると言明していることに表れている。彼の論理は、核抑止論の最新バージョンなのである。
 加えて、彼は、ノーベル平和賞の授賞式で「正義の戦争」の存在を肯定した。彼は、核抑止論の呪縛と正義の戦争へのこだわりを捨てていないのである。この価値観と論理に拘泥する限り、オバマ大統領は、暗殺者の手からは自由となるであろうが、その生存中に「核兵器のない世界」を実現することはできないであろう。

オバマの論理の破綻
 なぜなら、他国あるいは非国家主体が、彼と同じ論理を採用すれば、米国は核兵器を手放すことができないことになるからである。現実に、北朝鮮は、米国の軍事力行使に備えるには核兵器が不可欠であると考えている。北朝鮮は、米国が脅威ではなくなるまで核兵器は放棄しないだろうし、北朝鮮が核兵器を廃棄しない限り米国の「核の傘」は必要だというのが、日本政府の姿勢である。自国の独立と安全のために核兵器が必要だとすることでは、米国も日本も北朝鮮も同レベルなのである。
 米国の核兵器は必要だが北朝鮮の核兵器は許せないというのは、全く説得力のない独善的主張である。ここでも、核兵器に国家の安全保障を委ねようとする矛盾が生じているのである。核兵器は万人にとっての恐怖なのである。その恐怖の武器を自分は持つが他人には持たせないという論理は、「諸国民の公正と正義」(日本国憲法前文)とは両立しないであろう。

核兵器の廃絶と戦争の廃止
 1955年、バートランド・ラッセルとアルバート・アインシュタインは、「たとえ、水素爆弾を使用しないというどんな協定が結ばれていたとしても、もはや戦時には拘束としてはみなされず、戦争が起こるやいなや双方とも水素爆弾の製造に取り掛かるであろう。なぜなら、もし一方がそれを製造して他人が製造しないとすれば、それを製造した側は必ず勝利するに違いないからである。」と声明している。多くの賛同者を得たこの声明は、冷戦時代のものであるが、核兵器の特性についての鋭い指摘は何ら色褪せていない。
 戦争に勝つということを目標とする限り、核兵器は対抗手段がないがゆえに極めて有効なのである。けれども、それが使用されれば、「人類の存続を脅かす」のである。
 そして、この声明は、平時における核兵器の使用禁止協定は、戦時になれば踏みにじられるであろうと警告している。ここに、「核兵器使用禁止」に止まらず「核兵器全面廃絶」を希求しなければならない理由がある。
 加えて、戦争という制度が存続する限り、核兵器の応酬と人類の存続の危機が継続することが指摘されているのである。ここには、核兵器廃絶を希求するものは、戦争の廃絶をも合わせて希求する必要性の示唆がある。
 軍事力の強弱、即ち戦争で物事を解決しようとすれば「最終兵器」である核兵器を手放せないこととなり、それが使用されれば、勝者も敗者もない事態がもたらされることになる。核兵器のない世界を望むのであれば、戦争の廃棄をも主張してこそ、説得的となるのである。
 日本国憲法9条は、戦争や武力行使の放棄に止まらず、戦力と交戦権を放棄している。核兵器の廃絶と日本国憲法の世界化は、同時に求めなければならない課題なのである。

本当の危機との対抗
 私たち人類にとっての本当の危機は、2万数千発もの核弾頭が現存しているにもかかわらず、核兵器廃絶条約の交渉が開始されていないことである。
 現代国際社会において、核兵器の非人道性は十分に共有されておらず、核兵器の必要性を主張する勢力が、政治権力を握っているのである。
 私たちは、核兵器に依存する政府の姿勢を変えなければならないし、利潤追求のためであれば、人の命などどうでもいいと考えている勢力と対抗しなければならないのである。
 私たちは、恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生活するために、たたかい続けなければならない。
 私たちは、そのたたかいに、必ず勝利するであろう。